この地球で遊び尽くす!!🌏1歩踏み出し、軽やかに生きていく人を増やす。
【Yuko April ~Colour Our Life!~ 公式LINE】
1番直接コミュニケーションを取っていただきやすい場として、あらゆる発信をしています。
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伝えたいことは伝えきれないほど沢山ある。
まず、私が何を考え何をしてきたのかを知ってもらうと
何を伝えていき、何をこれからしたいのか?が
伝わって行きやすいかなぁと思い、こうして読んでいただける皆さんにだけでも届くように文章にして書いてみます。
今、こうやって読んでくださっているお1人にでも届けば、書いて良かったなぁと思えます。
これでもかというくらい長いですが、ゆっくりお付き合いいただけますと嬉しいです。
それでは、、、
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改めまして、初めまして!
Yuko April ゆうゆと申します!

京都市内在住、生まれと育ちは奈良県奈良市です。
富雄という所で生まれ、小さい頃は本当に裸足で野山を駆け回るような、わんぱく少女でした。
山と川と田んぼの側で、四季それぞれの自然の香りをふんだんに嗅ぎながら育ち、
中学進学にともなって、奈良市内でも旧市街、若草山の麓に移り住み、東大寺、春日大社、奈良公園という文化遺産の近くで過ごしました。
奈良の人間は本当に奈良のことが好き。
今や京都に住んで20年近くになりますが、私の心根はいつも奈良にあります。
故郷を愛して止みません。
▶︎目次
- 誰もが自分の得意、強みを見つけ出し、やりたいことで生きていける、軽やかに世界と繋がっていけるように。
- 私の幼少期ー英語、世界との繋がり、
- 中学時代・高校時代ー馴染めない、違和感との闘い
- 大学時代ーやっと楽に。沢山世界を見た時代
- シンガポール勤務時代
- 京都で日本語教師時代
- 大手旅行会社イベント部門勤務時代
- 結婚、出産
- 母と働く重圧
- 起業を決意
- 自分の場を持つ覚悟
- 離婚/シングルマザーの道へ
- ひよっこ経営者が
- 人は何のために生まれ、何を目指すのか?
- まとめ/私が伝えたいこと
- やっぱり!!
- あなたは何の為に生きますか!?
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『誰もが自分の得意、強みを見つけ出し、やりたいことで生きていける、軽やかに世界と繋がっていけるように。』
今、やっているお仕事としては
✨オンラインで英語の先生
✨『国境のないお家ULU』 株式会社ULU 代表取締役
✨英語de幼児教育インストラクター養成事業 一般社団法人We代表理事
この3つの仕事が主なお仕事です。
コロナ禍真っ只中の2021年2月22日。
『国境のないお家ULU』という2017年から妄想していた場を京都市内の東寺のすぐそばに構えました。
自分の夢だった『国籍・年齢・性別』なんて全然関係なく、普通〜に色んな人がごちゃ混ぜに集っている場所を作りたい。京都なら、それが叶う!と、
皆様のお力をお借りし、クラウドファンディングを経て、ここだ!という物件を探し当て、OPEN!に至りました。

ここは、世界と繋がりながらも、『誰もが自分らしさ全開でいられる場所』
本来の自分、ありのままでいたら良い場所。
老若男女関係なくです。
お陰様でStaffも、集ってくださる方も、枠にとらわれない、とにかく『個』が際立った人が多いです。
皆、心根の本当に優しい気持ちの良い人達ばかりです。
この競争社会、目立つことはちょっと敬遠されるばかりの日本社会の中で、すっかり『自分らしさ』なんて忘れてしまっていませんか?
日々の忙しさ、心配事に追われるばかりで、『自分らしさ』についてなんて考えることなく余裕なく走り続けてる。
そんな方って多いと思うんですよね。
ちょっと人と同じで無ければ突かれる。弾かれる。そんな中で『自分らしさ』なんて育まれる訳がないんです。
でも、日本という枠から出てしまえば、何と世界は面白いこと!!だったり、
色んな格好、色んな考え方、発言がしっかりと受け入れられています。
こんな考え方、価値観があったんだなぁ〜。そんな出会いを当たり前にしていって欲しい。出来るだけ、枠なんかにとどまらないではみ出して生きていったらいい。
そんな考えに賛同してくれるStaff達と運営を続けています。
ULUでは、
・英語学童
・英語de幼児教室
・各種イベント(大人、ファミリー向け)
・インバウンド事業(託児サービス、親子向けサービス)
やってることが多岐に渡りすぎてて、やることが毎日てんこ盛りサービスですが、本当に優秀なそれぞれ得意が絶妙に違うStaffさん達に日々、救われながら運営しております。
誰もが『自分らしさ全開』で輝ける。日本という枠にとらわれず、軽やかに世界に駆け出していって欲しい。大人も子どもも。そんな思いでいっぱいです。
私自身も2024年からまた少しづつ海外に出ることを再開させていますが、まだまだガンガン行かせていただきますよ!
生きている間に出来るだけ地球を遊び尽くして死にたいです。
そんな考えの持ち主だとなると、さぞかし幼い頃から『自由奔放』に生きて来たんだろうね。と思われると思います。
ぜんぜんっ!!!
ぜ〜〜〜〜〜〜んぜんっ!!!(声を大にして2回言うた。)
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ガッチガチに凝り固まった私の幼少期ー英語、世界との繋がり
3人兄弟の長女としてこの世に誕生。
バッチリ第2ベビーブーム世代ですので、とっても子どもの多い時代に生まれています。いわゆる昭和の競争社会のど真ん中時代ですね。
父は不動産会社経営。男前さんだったと思います。
飲む・打つ・買うを地で行っているような人でした。
お酒とタバコと女性が大好きで、常に2,3人女の人の影が、、、って感じの人でした。
ハワイから丸文字で『誰これ?』っていう人からハガキが届いたり、自宅に電話がかかってきたり、一緒に行ったであろう海外行きの航空券の控えが出てきたり。
帰ってくると常に機嫌が悪く、『怒鳴られる!』って思うので、気が休まらなかったなぁ。しかも、女の子だったのに幼い頃からめっちゃ叩かれて育ちました。
顔にアザを作って登校し、流石にこれは、、、って担任の先生から心配されるような。
今なら大問題ですよね。。。
父の仕事は不動産業ですから、収入は超不安定。
良い時はものすごく良いのですが、悪い時には本当に大変。
それを指を加えて見てるだけではいけない!と母が自分で起業したのが、私が4歳の頃。
その頃はまだまだ知られていなかった『早期幼児教育』の世界で起業して行くことに。
母は大阪の下町生まれで、厳しい祖母の元で養女として育てられ、甘えることを知らずに大きくなった人。
今は全然そんな事ないですが、昔は色んなことに遠慮して生きていた人でした。
父にも、祖父母にも、世間にも。
母にとって父との結婚は2度目の結婚だったらしく、
よく冗談で、私はお父さんの7番目のリストやったから。ラッキー7やったから結婚したんかなぁ。って。(ラッキーか??)言ってました。
父方の祖母が近くに住んでいて、しょっちゅう母は私たち子どもを連れて訪ねていっていたのですが、祖母だけでなく、義妹達3人に母がめちゃくちゃ虐められていて、
私は大人の事情、裏側、、、というものを見聞きして大きくなってしまうことになります。
大人の顔色を伺う、顔色を見るのが得意?な子に出来上がっていってしまいました。
母は養女として、沢山の教育を受けさせてもらって育った人なので、私達にもいわゆる『教育ママ』でした。
私は3歳の頃には、もう色んなプリント教材を40年前だというのに、毎晩してからしか寝させてもらえない日々でした。
母はめちゃくちゃ細身で、大人しそうで、控え目に見える人なのに、ところがどっこい!
めちゃくちゃ真の強い女性です。
私が幼い頃の母の口癖は『1番じゃなきゃ。』『1番になりなさい。』
『1番になりたい。』なんて私、思ったこと無かったのになぁ。
今だに『1人だけで、自分が1番になりたい!』っていう意識はま〜〜ったく私の中に無いなぁ。
そんな母の影響で、私は幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と毎回受験を経験することが出来ました><。。。めちゃくちゃしんどかった、、、
絶対、国公立でなくてはならない。という、今考えたら偏った思考の元、
受ける学校も決められてました。大学は自分が行きたかったところに行ったけど!
今となってはそれも皆、母の愛情。私を思ってのことだと理解してます。
この母の元で育ったことは、大きなかけがえのない体験です。
信念の塊のような人で、
『ブレない姿』
『折れないしなやかさ』
は本当に尊敬してます。
時には、無鉄砲すぎるやろ!!という行動で皆を驚かせますが、それもいつも自分のためではなく、『誰か』を思ってのための行動。
こんなまるで違うキャラクターの父母の元で育ちましたが、両親は私が16歳の時に離婚。
バブル崩壊と共に家庭も崩壊です><。。。
この頃には、母も経営者、父も会社経営をしてましたが、
母の会社が2号店を出すということで初めて銀行に融資をお願いに行ったところ、
『これ以上、まだ借りられるのですか?』と言われて、父が母の会社の名前で5億のお金を既に銀行から借りていたことが発覚。
昔は、特にバブル時代は判子さえ持っていけば代表者本人がサインしなくとも銀行からお金が借りられていた時代だったんですね。
『50歳になったら離婚させてな。』と私にしょっ中言っていた母でしたが、50歳を待たずして、40代で離婚。
と同時に自分がサインしたものでは無い。という裁判を数年かけてしていくことになりました。
裁判で借金は2億まで減ったものの、2億は返して行かなくてはならなくなり、この時点でもうどこの銀行からも今後融資は受けられる状態では無くなりました。
あまりに突然に起こったことだったので、母はずっとこの頃、精神状態がおかしかったし、いつ自殺してもおかしくないような状態だったので、私が毎晩、寝かしつけをしないと寝られないような時代がありました。
経済的にも苦しくなり、母方の祖母から食べ物を送ってもらいながら生活をする時代もあったなぁ。
そんな年の年末、母と妹と3人で奈良県桜井市にある『安部文殊院』まで電車に乗って初詣に行ったことを覚えています。
『振る舞い』でいただいた粕汁が美味しかった😋
3人で再出発を誓った年末でした。
いつもどんなにお金が大変でも私たち娘、息子のためなら歯を食いしばって、踏ん張って働いてくれていた母。
シングルマザーになっても高校を中退してしまうことになった弟をカナダに留学させ、妹をアメリカに留学させ、海外送金を意地でも、し続けていました。
『あなたは自分で行ってね!』
『はい!分かりました〜!』って、私は大学卒業してから自力でシンガポールへ。
『海外に出られる自分達であれ!』というのを植え付けてくれたのも母のおかげです。
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中学生時代は、学生生活の中で1番楽しかった時代。
国立の奈良教育大学教育学部附属中学校に通いました。
いわゆる受験をして合格して通った学校ですが、当時は3年間クラス替え無し。
担任も同じという珍しい環境で未だに中学時代の友達、先生とは1年に1度集まります。
本当に良き師、良き友に恵まれた3年でした。
高校を受験する!ってなった時に、母の
『1番になりなさい!』が発動し、
奈良県で1番トップの公立高校に進むように進められます。
しかも、その高校が自宅から30秒のところにある。。。という。
中学、せっかく受験して入ったというのに、奈良教育大学教育学部附属中学校には、なんと高校が無いのです。
再び高校受験をしなければならず、
選ばれて受験して入っている人達の中で、
公立高校受験に重要な内申点を高得点勝ち取らないと入れないトップレベルの高校を受験することはと〜〜〜っても大変。。。
ランク的に2番目の公立高校で十分に素敵!と思う私の思いは聞き届けられず、見事に受験に失敗。。。
そして、泣く泣く京都の私立の女子校へ。
この受験に失敗した日からさ、、、2週間口がきけなかったなぁ。
初めての挫折。失敗。
思ってもいない、行きたくもない女子校にこれから3年間も通うことになるなんてありえへん、、、って思った。
自宅から30秒で行ける奈良の公立高校を落ちて、奈良から1時間45分もかかる京都の高校に毎日通うなんて、、、
でも結果、
<京都の私立女子高校に通って良かったこと>
・隣の県だというのに全く文化の違う京都を知れたこと
・私が不本意ながらに泣く泣く通っていた高校は、
京都では皆、すごくプライドを持って通っている伝統ある学校であったこと
・仏教校だったので、皆、数珠を持ち、手を合わせるということを高校生にして初めて体験し不思議と全然嫌でなくむしろ、好きになったこと
基本的に京都のお嬢様が多いこの高校に最後まで馴染めず終いで、今や高校時代の友達や恩師で連絡を取れる人は誰1人いない状態ですが、
のんびりした自由な校風の素敵な学校でした。
高校の正門の横に毎月貼られる『今月の言葉』みたいなので見つけたこの言葉が、未だに大好きな座右の銘です。
『人それぞれ 花それぞれ それぞれに咲く』
この言葉、大好きです。
咲くタイミングも、何で咲くのか?もその人次第。
本当にそれぞれで良いって思う。
そうだよね!それで良いよね!って掲示板の前で激しく同意したことを覚えています。
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高校2年で親が離婚し、泥沼裁判へと突入したこともあり、
全然!受験どころの騒ぎではありませんでした。
静かに勉強するために、お弁当屋さんとかで住み込みアルバイトとかさせてもらえないだろうか?と真剣に探していたくらい、、、
まぁ高校受験で失敗してしまってから勉強にスイッチが全く入っておらず、志望していた国立の外大へ入れるような成績ではまったくありませんでした。。。
1年の浪人生活を決意。
でも、予備校に通わせてもらうお金なんて無いだろう、、、と小さな大阪の予備校の特待生枠を勝ち取り、1年間無料で授業を受けさせてもらえることに。
今考えるとホンマに私、偉い!と思う。
こんなのも全部自分で探して来て、勝手に予備校の試験受けに行ったんだわ。
めっちゃ自立してるやん、、、
浪人生時代に初めての彼氏が出来てしまう。という事態がありましたが、
それでも同じ志望校だったため2人で猛勉強の末、合格🌸
これはほんまにドラマみたいやったな。
私が先に前期で合格して、後期でなんとか彼が合格!
一緒の大学に共に奈良から通えることになりました。
大学はね、本当に学生生活が楽になった。
国立の外大なんて、私立のキラキラおしゃれな外大と違って、めちゃくちゃ変人の集まり。それが私には本当に楽ちんで心地よかった。
4年で卒業する人の方が少なくて、皆どこかに旅に出てたり、留学したり、途中で留学先で結婚しちゃったり、起業したり。
私も大学生時代に色んな国を旅しました。弟がバンクーバに居たから、訪ねて行ったり。でも、20歳で行ったモンゴル旅行が最強だったかも。
大学の先生を通じて、英語も日本語も通じないモンゴルで遊牧民の家族にお世話になる体験をさせてもらい、山羊を捌くところを見たり、トイレが無いので大草原を走って行って皆が見えなくなる場所まで行って用を済ませるという体験をしたり。
大草原で夜中の2時ごろに見た星空は、今までの人生の中で紛れもなく、Best1の星空です。
この旅行を経て、『あっ、私きっと世界のどこでも生きて行けるな。』って思えたんですよね。
日本という国は本当に恵まれていて、綺麗で豊か。
この頃のモンゴルの首都ウランバートルにはストリートチルドレンもいっぱい居て、自分が日本人に生まれてきたことを心から感謝するいいきっかけにもなりました。
海外の良さにばかり目が行って、日本の窮屈さを嘆いていたけど、外から見た日本は素晴らしかった。
そんな風に大学生活を過ごしてきて、普通に企業に就職するイメージなんて私には全く湧かず、どうしても引き続き、海外と関わって生きていたかった。
そのために日本語教師としてシンガポールに渡りました。
Ngee Ann Polytechnicという工科系の短大のようなところに就職。


2000年になってすぐの頃のシンガポールは、まさにこれからグイグイ発展するぞ!という勢いに乗った時代でした。
その頃のシンガポールに住み、それを肌で感じることは、とってもエキサイティングな体験だったなぁ。シンガポールを拠点とし、周辺諸国の東南アジアの国々をあちこち旅しました。
香港系オーストラリア人の恋人も出来て、ますます英語も上手になり、このままシンガポールの後は結婚してシドニーに住むのだと思っていました。

3年半のシンガポール滞在を経て、一度帰国。
厳しい母から解放されていた3年半が、一気に日本に戻って現実を見てしまうことに。
また以前の私のように長女モード発動。
『こんなに必死でお婆ちゃんの介護もしながら働いているお母さんを置いてシドニーになんて行けない。行ってはいけない。』ってなってしまったんです。
彼は迎えに来てくれたのに、結局シドニーに行くことを断念し。自ら全部終わらせる行動に無理やり出て、彼ともお別れすることに。。。
そうするしかない。そんな親不孝できない。って思い込んでしまってたんですよね。もう後悔はしてないけど。。。
Singaporeを離れる前にある日本人の人にこう言われました。
『日本は大変だよ。』って。
意味がその時は分からなかったけど、帰国して日本で初めて日本企業で働くことになって、その意味を知ることに。
いっぱいしがらみがあるんですよね。
京都の日本語学校勤務を経て、
大手旅行会社のイベント部門に中途採用枠で入社。ここが大変でした。
女性は出しゃばってはいけない。とか、
先輩を置いて先に帰ってはいけない。とか、
妊娠したら、『辞めるんだよね?』みたいな。
上司からの暴言、パワハラでどんどん周りの人が病んで行って、
そうしたら残っているメンバーの仕事の皺寄せがやって来て、
イベントって開催日がどうしてもやって来てしまうので、待ったなし!!の世界。
どうにか全てを間に合わせないと当日、パンク出来ない!と必死で働き、気づけば毎日、終電どころか、始発で帰ってシャワーを浴びてまた出勤。みたいなサイクルに陥ってました。ひどいよね、、、どうしたあんなに頑張ったんだろう?
でも、この会社でないと出来ない経験も本当にたくさんさせていただきました。
海外での学会運営。世界規模の大会の企画・運営。
無茶振りも何度となくされて、変に度胸がつき、肝が据わったのもこの会社での経験のおかげです。
でも激務は激務過ぎて、栄養ドリンク飲みまくりで、飲まないと立っていられないようなフラフラな状態になり、確実に寿命を縮めてしまっている、、、、と退職を決意。
会社の取引先の営業さんと退職を決意したくらいのタイミングで食事に行くようになり、お付き合いも始まりました。
その方と、トントン拍子に『結婚』を意識するようになり、オーストラリア人の彼を別れてがむしゃらに仕事ばっかりやっていた3年に終止符を打ちました。
結婚することになった人は、『仕事のできる、速い、頼れる人』でした。
私も仕事上でめちゃくちゃ頼りにしていた方でした。
ちょうど離婚したばかりの方で、彼はとても傷ついて人間不信になっているようでした。
でも結構、”the昭和男子!” で、『好き』とか死んでも言われへん。みたいなタイプだし、プロポーズも全くありませんでした。
一緒に住む家をいきなり見に行ったような感じ。
でも、1つ言ってもらった言葉で訳がわからんけど、面白くて気に入っている言葉があります。
『Yukoみたいな人が残っててくれたことは、広い砂浜でとびっきり最高の米粒を発見したような奇跡や。』って。
米粒て、、、でも、言いたいことは伝わるというか、笑っちゃうけど精一杯の絞り出した褒め言葉だったのだと思います。
きっと2人で今度こそは幸せに。そう思って2006年に結婚。と同時にマイホームを宇治に購入しました。
退職、結婚が決まり、今まで避けて避けていた母の会社を手伝うことに。
ちょうど、事務・経理全般をやってくれていた人が辞めてしまったので、引き継いで欲しいとのことでした。
毎日京都⇆奈良を往復する生活。
結婚と同時に結構大変な不妊治療を経て、可愛い可愛い子どもを2人授かり、子どもたちを連れて毎日奈良に通う生活を気づけばあっという間に13年も続けました。
2006年から2018年までです。
母と働くということは、とても勉強させてもらったと大変だった〜〜〜。
本当に最後の方は、心臓が毎日痛い。痛い。きっとストレスですね。
いつまでたっても娘なので、40歳過ぎても毎日、お小言を言われるわけです。私にしか感情をぶつける相手がいなかったのでしょう。毎日色々あれこれ言われながら制限のあるなか、自由に泳げない中、仕事をしていくのは本当にしんどかったです。

でもそうするしかないと思っていたし、それ以外の選択肢があるとも思っていませんでした。途中まで。
母が言うことは絶対だと思っていたし、逆らうなんてこともできませんでした。そうやっているうちに『自分は何がして生きていきたいのか?』っていうことも考えずに、子育てで忙しい。を理由にそこに何年も向き合わずに過ごして来てしまったんです。

でも、ある日40歳を目前にしてふと気づきます。
『子どもたちは日々こんなにすくすく成長してる』
『どんどん進化してる』
私は?この子たちが私から巣立った後、途方にくれて、毎日寂しい、寂しい、って嘆くような私になりたくない!!どうしよう!?何か始めなきゃ!!って。

初めて『自分の人生』について考えることを始めたんです。
何かを始めたい。と思ったときにまずぶつかった壁。
・自分には何があるか?分からない。
・自分の得意、できること、好きすらもわからなくなっている。
私には一体何がある?何が出来るんだろう?
何かしたい!自分の持っているもので勝負したい!人のお役に立ちたい。
そんな思いが溢れて来て、寝られなくなったんです。
まず『強み発掘コンサル』なるものを予約しました。
見ず知らずの女性起業コンサルタントの方に、
自分の強みを見つけるお手伝いのセッションを2時間していただくわけです。
でも、これが大きなきっかけ。後押しになりました。
その時に言っていただいて、今もしかと覚えていること。
・『武器をいっぱい身につけようとしない。あなたの中にあるもので十分。自分の中にあるもので勝負しよう』
・『あなたの場合は英語。英語講師なんて世の中にいっぱい溢れかえってると思うかもしれない。でも、あなたに教えて欲しい。Yukoさんが良い。っていう人が絶対に現れてくれるから』
・『収入の柱は最低3つ持つこと。旦那さんのお給料を含めても良い。3つ持っていたら、1個柱が折れてもまだ2本で立てる。2本しか無かったら、1本折れたら立てないよ。』
これをきっかけに2016 年から細々とオンラインの英語講師デビューを果たすわけです。


母の幼稚園関係の人たちをSNSで徹底的にブロックして、伸び伸び発信出来る環境を整え、毎日発信する日々をスタートさせました。
でも、絶賛子育て中ですので、時間は限られています。
寝かしつけをすると疲れているので、横たわった途端、自分も一緒に寝てしまいます。
自己嫌悪に陥りながら、どうやったら時間が作れるのだろう?早起きするしかない!と、朝4時、5時に起きて自分の発信の用意をするということを始めます。
夜泣きなどで思うように進まなかったりしたけど、『子育て中』を言い訳にするのは辞めました。

起業を目指す女性コミュニティーに入ったことも大きかったです。
ジャンルは違えど、これから0を1にしようと頑張る仲間の存在があったことはとても大きな支えでした。
これはこうしたらいいんじゃない?
こうしてみようか!これ、私出来る、やってあげるよ!といったやり取りが同じ方向を向く仲間同士でとっても心強かった。


ママ友なんて1人もいない私でしたが、共通言語のある同士との出会いは有り難かったなぁ。
共に励まし合い、切磋琢磨して手探りでも確実に前に進もうとしてあの時代。大きな1歩を踏み出した時でした。
その頃のメンターさんが香港在住だったので、
妹に子どもを預かってもらい1泊で弾丸香港にセミナーに行ったり。



今、自分が居る環境からどうにか変化したい。変わりたい。ってもがいた時代でした。
毎月、夫から生活費をもらう。そんな生活から脱却したかった。
国立大学を出て、シンガポールで働いてそんな私だったはずなのに、結婚して夫に頼らないと好きなものを遠慮して買えない生活。子どもの物を買う事ばかりを考えて、自分の下着を買うなんてこと全然出来なかった。
これが70歳、80歳までずっと続くのか、、、子ども達が巣立った後でも、夫にお伺いを立てないと何も買えない生活が続く。そんなの嫌だ、絶対に嫌だ。
どうにかしたい!そんな思いでいっぱいだった。
起業を目指す女性コミュニティーに入って0から1を学んだおかげで、
初めてリリースしたオンライン英語コースに7人の生徒さんが集まってくださり、起業女子デビューが出来ました。商品・サービスを考え、LPを自分で作り、集客の導線を考え、、、と慣れない作業に大奮闘しながら、頑張った!

その後、どうして行ったらよいのか?とかコンテンツ作りに必死こいていながら、次にあった見つけたメンターさん。
仕組み化を成功させ、日本には家が無く、PC1台で世界中を飛び回りながらお仕事している方だった。

その人のオンラインサロンで皆が2017年に生まれたサービスValuに挑戦してみることに。
もう今は無いけど、今考えても、面白いサービスでした。
VALU - Wikipedia
1人1人の人間を株式会社に見立てて、その人が今後どれだけ伸びていくか?その人のやる事業が今後どれだけ伸びしろがあるのか?に投資する。そんなサービス。
それにオンラインサロンの皆で参画するにあたって、再び『これから先、自分がやりたいこと』考えるきっかけをいただきます。
起業することはなんとか出来た。
その先へ。
これからずっとこのままのスタイルでいいのか?
どうして行きたいのか?
これに参画することで考え始めたんです。
私のメンターさんも面白いこと考えついてた。
世界のあちこちに秘密基地を作る。まずはカンボジア!って。
カンボジアで物件を借りて、管理人を雇ってノマドな人たちが泊まったり、仕事したりコミュニケーションを取れる場所を一瞬で作り上げちゃったり。
私はどうするか??何がしたいのか?
車を運転しながら考えていたらふと、湧いてきた言葉。
『国境のないお家』
私、英語と言う言語を教える人になりたいわけじゃない。
英語を使えるメリットは『世界中の人とコミュニケーションが取れるから』
それをツールとして、世界中から人がやってくるような場所を作りたい。
年齢も国籍も関係なく、人がごっちゃに戯れられる場所。
京都に無くない??無いなら作ったら良いってことちゃう?って。
本当に漠然と『国境のないお家』というのだけが思いついて、どうやったらそんな場所が作れて、どういうプロセスを踏んでいけば良いのか?その時は皆目検討もついて無かった。
ただValuに参画したことで、自分の存在をアピールしたり、自分のやりたいことを応援してもらうには、毎日そのことについてどんな行動をしたのか?を発信していく必要がある。
ということは、毎日向き合わざるおえなくなったという訳。
『国境のないお家』を作るを決めたら、それに向けて日々どんな行動ができているのか?ということ。
まずは、イベントベースでも良いから、そういう空間を作ってみよう!と思った。
国籍、年齢、性別関係なく人が集っている空間。
イベント会社にいたことがこんな所で役立つとは〜!
場所を押さえ、企画を考え、告知を開始し、申し込みを受付。
申込者に対して連絡をし、当日準備、当日運営。
企画を考えるのは好きだし、得意なので、1番最初に京都の今出川でバーを借りてやったイベントには結構人が集まってくれた。

場所がら、京大生、同志社大学の留学生を中心に。
国籍・性別・年齢関係なく人が集まれる企画。
オンラインで英語の先生をしていたから、京都に来れる生徒さんも来てくださったし、必ずイベントでは『一緒に何かのワークショップをし、一緒にご飯を食べる』ことをしていた。
例えば、
・お味噌作りを一緒にしてランチを作って食べる。とか、
・デコ巻きロール寿司の先生を呼んで体験してみて、皆で一緒にいただく。とか。
素敵な場所との出会いがあった。
本当に色々行動し始めるとね、びっくりする出会いがやって来てくれる。
面白いようにね。
だから本当にとにかく、まず動いてみることは絶対に絶対に人生において鉄則!おすすめです。動いている人にしかチャンス来ない!
京都市南区で元銭湯を綺麗に改装して『レンタルスペース』として利用させてもらえる『九条湯』さんとの出会いがありました。2018年11月にOPEN。内覧会に行かせてもらって管理人さんとすぐに意気投合。

ご好意で1ヶ月に1回、本当に好き勝手させてもらってた。(感謝しても仕切れない。。。)
そんな中、コロナが始まってしまうと、本当に全くイベントなんて出来なくなったけど、それまで毎月、毎月欠かさず2年半。イベントをやり続けた。





最初は大学生、大人ばかりだったのが、やっているうちに『子どもも連れて行って良いですか?』っていう問い合わせが来始めて、じわじわお子様連れが増えていった。
イベントの内容も
・英語で忍者!とか
・流しそうめん祭り〜とか
お子様も喜んでいただけるような内容にじわじわと変化して行ったなぁ。
夫には『まさかイベントすることで赤字、出してへんやろうなぁ〜?』とだけ確認されてたので、なんかあまりイベントについても、自分の夢についても報告しなくなってしまってた。
たった1人で始めたこのイベント。
色んな方をご紹介してもらえたり、京都在住 外国人のリピーターさんも増えて来たり、『繋がり』が出来始めた。



まだ具体的にどうやって『国境のないお家』につなげて行ったら良いのか?が掴めずにいた時に、2つのことが起こります。
・だんだんお子様の参加者さんが増えるに従って、レンタルスペースに怒られることが増えてきた。
・ある人に『もうOPENの日を決めて、それに向かって場所構えて準備していくだけやん。もう出来るで。』と言っていただいたこと
参加者さんにお子様が増えてくると、当然、色々触ったり、走ったり暴れ?たり、、、
その度に管理人さんがピキピキ目クジラを立てて怒っていらっしゃるのが分かった。
お借りしている場所って、やっぱり制約の中でしか物事が出来ない、、、窮屈だなぁ。もうそろそろここで開催していくのは難しい。ってなって来ていた。
もし、自分で場所を構えることが出来たら、これが毎日できる!
英語は『当たり前』の環境の中、毎日楽しいことが出来る!
自分の場所をそろそろ持ちたい!ってなりました。
ある人に相談すると、『もうあとはOPENの日を決めるだけ。場所を決めるだけ。出来る!』って言っていただいた。
そうですか!?もう出来ちゃう私!?本当に???じゃあ場所、借りなきゃ!
でも、そんな物件を借りるほどのお金無い!!ってなって人生初のクラウドファンディング。それしか考えられなかったんです。
応援してもらい、こんな場所が出来ます!と告知もさせていただけるなんて。><。
誰かに『お願いします!』『助けてください。』『力を貸してください。』ということが大の苦手の私がお願いをしまくった。
本当に叶えたいこと、やり遂げたいことのためなら、お願いって出来るんだなぁ。と初めて体験。
Ready Forというクラファンサイトを使ってのクラウドファンディング。
期間中は、思うように出だし勢いがつかず、やきもきしてあまり寝られない日々が続いたり。
でも最終的に、本当に沢山の方々にご協力をいただき、目標の100万円を超えて130万円を集めることが出来た。

この頃はすでにコロナ真っ只中だったので、当然、色んなことを言われたりもしました。
『こんなご時世に人が集まる場所作り?頭おかしいんちゃうか?』とか、
『そんな非常識さにがっかりしました。』とか、、、
でも、これまたどうしても叶えたいことのためなら、そんな声、気にならなくなるんですね。
そらそら、100%全員の方にご理解、ご協力、ご賛同を得られるなんてことまぁ〜無い!!
少しでも応援してくださる人がいる限り、『諦めない!』って進みました。
物件も色々見に行ったけど、今の東寺さんのすぐそばの物件にピン!と来て、すごいタイミングで契約しました。
空っぽの物件の中に必要な内装を施していく。
必要な物品を購入していく。




夫には夢の話は一切せず、クラファンなんて理解されないだろうと思っていたので、していることも全く言わなかった。
達成してしばらくしてから『国境のないお家』の構想と資金がクラファンで援助してもらえたことを伝えたような状況でした。
コロナ以前の夫なら大反対だったと思うけど、コロナが来て、イベント関係の彼の会社は大打撃。
一切お仕事が無くなって、『絶対に安泰』だと思っていた仕事、会社がこんなにも脆くも崩れることってあるのだ。サラリーマンが仕事が無くなるってことがあるのだ。を絶賛体験中の日々だったので、すんなり認めてくれた。むしろ、『羨ましい。』と。
物件を借りる保証人になってくれました。
2021年2月。
コロナ真っ只中に株式会社ULU 『国境のないお家ULU』が誕生。

ずっと1人でやっていたイベント。
こうやって株式会社にしてしまって、私一体この事業を誰とやっていくの?ってなった時、本当に不思議。
2人が吸い寄せられるように名乗りをあげてくれました。
Fumiちゃん。Seika。

Fumiちゃんは旦那さんが私の義弟のビジネスパートナー。
そして、息子同士が同じ幼稚園のママ友でもありました。
(幼稚園とは、うちの母の幼稚園)

Seikaは、オンラインでした話したことがないくらい面識も少ない仲で、 Seikaの旦那さんが私と同じコ・ワーキングスペースの会員だったことで繋がったご縁でした。
彼女の旦那様がクラウドファンディングに協力してくれて、『妻がこんな事業に絶対興味があるので、遊びに行かせてやってください。』と言ってくれたことがきっかけでした。

さぁ〜。箱は出来た。助さん、角さん的存在の頼もしい仲間が来てくれた。
具体的にどうやって『国境のないお家』はマネタイズしていくのか?サービス内容を決めて動いていくことが必要でした。
国籍・性別・年齢関係なく、人が集える場所!なのに、コロナで集うことがタブーとされてしまったのです。
当時、京都はゴーストタウンか?のように鎮まり帰っていて、あんなに海外からの方々で溢れかえっていたというのに、一切外国人が京都に居なくなりました。
でも、ラッキーなことに2年半イベントを京都でやり始めたおかげで、京都在住の外国人の友達が結構出来ていたのです。イベントのリピーターさん達ですね。
彼らもコロナが来て、とても困っていました。
ガイドや通訳、カメラマンのとしてのアルバイトが一切出来なくなったこと。
飲食店でアルバイトをしていた人達も収入が激減していました。
そんな彼らが『何か一緒に仕事させてください。』って言ってくれたことから、オンラインの英語レッスンを助けてもらうのはもちろん、『国境のないお家』のStaffとして働いてくれないか?と声をかけることが出来ました。
彼らをいう心強い存在と共に、まず『英語学童』をスタート!

学校帰りに夜7:00まで毎日来てもらえる環境を作ることにしました。
月曜日〜土曜日まで毎日OPEN。
毎日日替わりでカリキュラムを決めて、それを英語でやっていくというものです。
英語でArt。英語で体操。英語で実験。
もちろん最初から生徒さん集まる訳もなく、本当に色んな地道な方法で告知、集客を繰り返しました。
・周辺にポスティング
・地域のフリーペーパーに掲載
・地域新聞に取材依頼
・クラファンからFacebookグループを作り、そこでのコツコツ投稿
・InstagramからLINE公式アカウントへ
・説明会の実施
・フリーペーパーを作り、地域の子ども食堂や親子が出入りしそうな場所に置いてもらう
まだまだあったのかも?ですが、考えつくこと片っ端からやってみました。
2月から説明会を実施して、3月に春休みプログラムprogramをスタート。
4月から本格的にOPENという運びになりました。
今考えると、よくもまぁ、どこの馬の骨かも分からないやつがスタートする新規事業の説明にコロナ禍に足を運んでくださったなぁと感慨深いです。
6人の生徒さんと共に2021年4月に英語学童をスタートさせました。
じわじわっと増えてきて、それでも12人。



家賃と光熱費は払えても、Staffのお給料を出していくにはまだまだ赤字。創業融資を銀行から受けていましたが、毎月毎月どんどんお金が出ていく状態。
早く赤字を抜け出したい!と焦るもののまだまだ人が集まれない状況は続き、厳しい状態は続きました。

最低3本の柱を!の教え通り、あと2本。収入の柱を確立していく必要があります。

英語学童は午後2:30〜の事業なので、それまでにスペースを使うようなことも徐々に考えよう。と、未就学児向けの『親子英語教室』をスタートさせました。
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『英語de幼児教室』の誕生
でも!!私は母の仕事場でずっと『幼児教室』の先生はしていたけれど、幼児英語は教えた経験が無く、起業しようとしたときにおっしゃっていただいた持っているもので勝負する!に従って、『英語❌幼児教育』を掛け算した”英語de幼児教室”をスタートさせてみました。
モニターさんを募集して、その方々は
・沢山写真や動画を撮らせていただくこと
・保護者の声をいただくこと
に同意いただいた方たちとスタートしました。
今まで幼児教室の先生としてやって来たことを英語に置き換えてやればいいのです。
特に0〜3歳のお子さんの吸収力は凄まじく、英語でずっとレッスンが行われていたとてそれをストレスに感じることはありません。
始めるのは早ければ早いほど英語も驚くほど入っていき、知能もグングン伸びていきます。






これ、実はきちんと教室として運営しているところ、全国でもまだまだ少ないのです。
いわゆる早期幼児教育のお教室を英語でやっちゃう。
きっと全国的に講師がいないのだと、、、幼児教育の知識もきちんとあって、英語でレッスンがコンダクト出来る。そんな人材がまだまだいないのだと思います。
私のこのレッスンを0歳児から年長児までずっと1人で回し続けるわけにはいかないので、幼児・児童英語の専門家 Sachiをビジネスパートナーとし、2人で『英語de幼児教育インストラクター養成講座』をスタートしました。採用も兼ねての講座です。
講座修了生の中からすぐに即戦力となれる人を雇用することで一緒にレッスンを回してくれる状態を作っていきました。
これは、本当に奇跡的に近所に住む、バイリンガル育児をお金をかけずに実践しているママRieちゃんという大きな出会いをもたらしてくれました。

今、このインストラクター養成講座は4期まで終わりましたが、今、1期生1人。2期生2人。3期生1人。4期生1人が働いてくれている状況です。5人。の講師と外国人staffでこちらの部門も英語学童より今、生徒人数の伸び率が凄いです。






ULUの外国人Staffの中でも、英語学童向きなStaff.幼児教室向きなstaff.
両方いけちゃうstaffがいます。強み、得意を活かした配置をできるようにしています。
英語学童
英語de幼児教室
そして、各種イベント。
子どもさんに限らず、大人だけが集える日、Familyで参加できるイベントの運営もしています。
『ULUっ子になれるのは、何も子どもに限りません。』
ULUっ子憲章なるものを作りましたが、そこに上記のように明記しています✨
いろんな人に出入りして欲しい。
関わって欲しい。
ようやく2022年後半からコロナも終息し、2023年から京都に外国人の方が以前のように戻って来た状態。



あともう1つのしっかりした柱。
『インバウンド事業』をしっかり構築すべく奮闘中です。
2025年にはしっかりとした柱になってくれることでしょう。
ここまで丸4年かかりました。
Fumiちゃん、Seikaと3人でスタートさせたULU。
初めて売上が60万円行った月に泣き、100万を越えた月に喜びを分かち合い、今やStaffの人数全員で20名。在籍生と人数が100名になろうとしています。
一足飛びにここまで来ませんでした。
本当に泥臭く皆でやって来た。
今年に入ってDubaiの展示会に出展したり、子どもたちを連れてカンボジアに遠征に行ったり、春に出てみたかった番組にTV出演も果たしました。







まだまだ本当にここから。
ずっと伴走してくださっている会計士事務所の担当者さんからも『よくここまで持って来られました!軌道に乗った!と言えるまであと少し!と言っていただきました。』
✨発信をやめなかったこと
(反応が無いようでも、皆、見てくれてる。リアルで会った時によく言われます。
いつも見てるよ〜って。)
✨とにかく我々が楽しみそのエネルギーを拡散、発信するようにしたこと
✨目線を高く、視野を広く(目の前のことしか見えてないと苦しくなる〜)
これを続けていると、憧れの人から目をかけてもらえたり、相談に乗ってもらえたりコラボさせてもらえたり、、、そんなことが増えて来ました。

これから益々楽しみです。
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プライベートでは、この4年の間に残念ながら離婚を経験しました。
今でも家族は家族。一生家族です。
パパが居て、私が居て、息子が居て、娘が居て。
この4人が1つの船に乗っている状態は変わらない。
でも、ずっと言っている『子ども達が巣立った後』2人だけで老後を仲良く暮らしていっている姿は想像が全く出来なくなっていました。
パパには本当に感謝しているし、幸せでいて欲しい。
・息子が1年生になる時に仕事を辞めて家に居てほしいと言われたこと。
(働き方、母親として、、、といった話合いが全くできていなかった)
・息子が不登校になった時にとにかく、学校に行くことが正義だと譲らなかったこと。
(子育てで大事に思うものの不一致。)
・会社の常務取締役に昇進した際に、『常務取締役夫人だぞ』と言われたこと。
(何が私にとって嬉しいことなのか?が伝わっていないことが発覚。夫のステイタスにときめくタイプでは無いことは伝わっていると勝手に思っていた。)
人それぞれに本当に価値を置くものの違いはあって、我々はそういう擦り合わせや話をもっともっと結婚前に語り合うべきだったなぁと思います。
もちろんパパはとても素敵な人です。ずっと幸せで居てて欲しい気持ちでいっぱいです。(仕事が出来る人なので、今や先輩方を差し置いて選ばれ、社長さんになっておられます。)
私は、ULUを設立して4年間ひたすら突っ走って来て離婚も経験して。
でも人生をトータルで考えた時に、また誰かと素敵なパートナーシップが気づけたら良いな。と思うように最近なっています。
それこそ、国籍・年齢を問わずにね。




分かっています。
まだまだ経営者の端くれにもなれないほど、経営者としてヒヨッ子で
甘くて、全然まだまだだっていうこと。
でも、ここまで来ました。
あの40歳を目前にこの先の自分の人生を本気で考え始めてから
共に歩む人の数がこんなに増えました。
あの日1歩踏み出すことを決めたから。
『自分の人生から逃げない。』って決めたから。
まだまだ挑戦し続けます。
これから皆でみる景色が楽しみすぎるから。

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挑戦したその先の景色を見たい。
NYで挑戦し続けている渡辺直美さんの言葉。
『挑戦したその先の景色を見たい』
正に挑戦した、行動した人しか見れない景色ってあって、
それを私の場合は『皆で一緒に、大事な仲間達と一緒に見たい』感じたい、分かち合いたいです。
この地球に生まれ、限られた時間、遊びに来ている私たち。
それこそいろんな経験を生きている間にさせてもらいます。
皆、人生に終わりがあるのは全員同じ条件。
永遠に生き続けることは今、まだ不可能だとなっています。
そんな私たち人間が、死に際に後悔する10のことって以下のことたちだそうです。
1.本当にやりたいことをやらなかった
2.健康を大切にしなかった
3.仕事ばかりしていた
4.会いたい人に会いに行かなかった
5.学ぶべきことを学ばなかった
6.人を許さなかった
7.人の意見に耳を貸さなかった
8.人に感謝の言葉を伝えられなかった
9.死の準備をしておかなかった
10.生きた証を残さなかった
第1が、『挑戦しなかった』ことへの後悔なんですよね。
1歩踏み出すことが出来なかった。
それって、本当に身体と精神が元気なうちにしか出来ないことです。

この限られた命、最大限に活かしてこの地球にいる間に思う存分楽しむ。
そう自分の人生を決める。
こうやって長々と書いていると本当に私の人生、1回で上手くいったことが何もないなぁ〜失敗の連続だなぁって改めて感心しちゃう。
でも、失敗した〜って思うのって、『私出来たはずなのにな。出来るはずなのにな。』っていう前提で思っているから。
出来るようになるまで、出来るまでやり続けたら出来る!そしたらそもそも失敗なんて無いのかもですよね。
やるか?やらないか?やり続けられるか?それだけなのかも。
後悔しないために『やりたいことをやる人生』にしましょうね。
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今日からすぐにできる4つのことがあります!
・自分で自分を否定しないこと(絶対に)
・いくつになっても新しい一歩を踏み出すこと(踏み出したことで見える景色があるよ)
・家族や大切な人に、心からの愛情を示すこと
(一緒に過ごせる時間がどれだけ貴重か、、、結局大切な人と限られた時間を幸せに過ごしたい。それに尽きますものね。)
・今日一日を大切に過ごすこと(自分を大事に、1日1日を大切に。)
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<私が大きく周り道をすることになってしまったわけ>
私はね、ここまで来るまでとっても時間がかかりました。
それは2つの大きな、大事なことが分かっていなかったから。
と〜っても周り道をしてしまった。
その2つとは、、、これ、起業するしない、しているしていないに関わらず、生きていく上でもとっても大事なことだと思うので、
ここから受け取って『2つ』とコメントをください!(『 』不要です。)答えをお送りさせていただきます。
こんな大変に周り道をしてしまった私だから、皆さんにお伝え出来ることがあるなって感じています。
沢山の素敵な方々とのコネクションも今は有難いことに沢山持っています。
軽やかに楽しくこの地球で遊べる人を増やしたい。
できれば命あるうちに世界と繋がる経験をたくさんして遊び尽くして欲しい。
私達は物凄い可能性の塊でしかなくて、昔の私がそうだったみたいに、もし私も1歩踏み出してみたいなと思ってらっしゃるなら、絶対にやってみた方が良い!って思います。
あの時挑戦しておいたら良かった、、、と後で思うことのないように行きましょうね!



You Only Live Once!
今のこの命は1度きり。
思いっきり地球にいる間、楽しもうね!
楽しみながら本気になれる!そんな大人、子どもがこの地球に増えますように!
Yuko April 公式LINE ~colour~


Love
Yuko April